6月10日私は19回目のアマゾンの旅に出発しました。今回はかなり心が痛くなる出来事が起こると、予測はしていましたが、それを遥かに超える重さがブラジルで私を待っていました。
4月にカヤポ族12名が、ダム建設反対の抗議集会に参加し、ブラジリアから集落に帰路の途中、自動車事故で亡くなりました。部族の中核的存在の人たち、30代から50代の男性で、全員が家族持ちでした。遺体がセスナ機で集落に戻ると、村人は大地を叩いて皆、号泣し、未亡人になった女性は白人が集落に来たら殺すと喚きました。白人のブラジル社会が、自然を破壊し、経済優先の論理に基づきダム建設を計画し、森の番人であるインディオがジャングルの代弁者として、この計画を阻止するために、結果命を落としたのですから、白人を恨む気持ちも分かります。個人的にも全員が仲間で、植林事業や識字事業、伝統文化保存等協力して進めていた矢先だったので、私自身も言いようのない悔しさと、悲しさで一杯でした。
亡くなった一人に大の仲良しだったカットングレがいます。彼はインディオ自身で文化を収録したいと言い、10年以上前からビデオを取り続けていました。ブラジルの協力者であるパウロが、彼にノウハウを教え、当団体が機材提供しました。1994年に日本のTV局が当地を取材した際も、彼は同行し、インディオの目から日本のテレビクルーを撮影していました。彼は私に「僕は部族の先頭に立ちカヤポ族の存続のため頑張る。危ない事だって覚悟してるから、結婚はしないんだ。僕が死んだら家族がかわいそうでしょ」そんな彼が30歳を過ぎた頃、家庭を持ちました。照れながら、嬉しそうに「やっぱり一人はつまらないからーーー」と言っていた顔が今でも思い出します。去年、彼とカヤポ族の未来を熱く語り別れ際に、来年来る時、何がお土産にほしいか尋ねると、「たぶん研子とは会えないよ」とポツッと言いましたが、彼はこの事故を予測していたのでしょうか?
ラオーニの次男テジェの死はカヤポ族にとっても痛手です。外部と部族の掛け橋役として、成長過程にあり、若きリーダーとして期待される存在でした。カヤポ族の生き字引のような存在だったカリニョティ。亡くなった人たちの顔が次から次へと浮かびます。
私がサンパウロに着いたその夜、亡くなった数人が夢枕に立ち「研子、カヤポの支援を頼む!村に行けばそれが分かる!」と言いましたが皆、笑顔でスッキリした顔をしているのには驚きました。
今回はTVグループも同行し、なんだかちょっと気も重くなっていたことが原因かどうかは分かりませんが、ブラジルに来て数日でギックリ腰になり、おまけにこの行程だけは避けたいと思っていたルートで、インディオ集落を訪れることになっていました。ブラジリアから約1,500キロの道。1,000キロまでは舗装道路がありますが、ぼこぼこの穴だらけで、そこを迂回しながら私たちを乗せたマイクロバスは、猛スピードで走り、ガタガタ揺れる度にズキンズキンと腰が痛みます。残りの500キロは、土道で、おまけに最近頻繁に盗賊が出て人が殺されるというので、目的地の町サンジョゼ・ド・シングーから警察官とインディオの人が、迎えに来てくれ、先導する中500キロを走りました。ブラジリアを出て丸二日、走りっぱなしでやっと到着。この間、外の景色は殆ど牧場と大豆畑でした。半年前、同じ道を車で走ったパウロが「1月にここを通った時はまだジャングルだったよ」と、その変わりように驚きを隠せない様子でした。道を挟み、地平線まで森が焼かれ黒焦げの木が、そこここに倒れている箇所と、すでに大豆畑になっている所が延々と500キロ続き凄まじいものがありましたが、この大豆は日本や先進国に暮らす人の腹を満たします。先住民居住区は、法的に承認している地域に限り開発は禁止していますが、それとて不法侵入者によりマホガニーなどが乱伐されているのが現実です。いたちごっこのように、乱伐跡地に植林を続けて約7年、途方もないものを相手にしている実感が、現場に入りリアリティーとして伝わってきます。
サンジョゼ・ド・シングーはインディオ保護区に一番近い町で、ここから1時間車で走った所に、インディオポスト、ピアラスがあります。そこからは水路でカヤポ族の集落を訪れる予定でいました。訪問許可は既に認可済みでしたが、確認の連絡をこの地域の責任者であるメガロンに、無線で伝えたところ、突然TV局の取材はダメだ。ブラジリアに戻れとの返事で、私とパウロは大慌てになり、らちが明かないので、直接メガロンと話すために、セスナ機でコリーダまで飛びました。メガロンとは15年来の付き合いで、私にとっては戦友のような人です。会った途端に抱き合って、声を立てて泣きました。彼は4月の事故で親友であるクジョーレや甥、いとこ等5人を失い、数週間前に孫が病死したばかりで、憔悴しきっていました。彼は語ります
「本当は自分も抗議集会に参加するために、ブラジリアに行くはずだったんだ。でもバウ地域で、金採掘人とインディオがもめていたので、そこにいかなければならなかった。ダムが出来たらこの自然が壊れるので、どうしても重要な人間に参加してほしかったので、自分が人選し、こんな結果になった」と自分を責めています。「研子一人だったら数カ所の集落に行ってもいいけど、今回は我々の問題で、悲しみに暮れている村の取材は、どうしても許可できないよ。ラオーニはあの事故以来、喪に服し、家に籠ったままで、村人すら彼の姿を見ることが出来ないんだよ」この話を聞いて私は、今回の訪問を諦めようと思いました。TVグループには申し訳ないけど、事情がこうであれば仕様がない。私は旅立った人たちが枕元に立った話をサラッとすると、メガロンは「もしかしたら、何かを死んだ人たちが研子に伝えたいのかもしれないね。ラオーニの村には入れないけど、もう一度クレモロの長老ヨバウに無線で聞いてみる」と突然話しが変わってきました。ヨバウを始めとしてクレモロ村の住人は私たちを待っている。という連絡を受け、最初のラオーニの住むメテゥティレ村訪問を諦め、計画を変更して私たち一行6名は、ピアラスからクレモロまでセスナ機で飛ぶことにしました。一集落にゆっくり滞在し、そこから見えてくることだってあるでしょう。 コリーダでは植林事業の責任者である、ムイカラとも会え、今回は私は訪問出来ないけれど、メベンコクレの集落から20キロ地点で、既に植林事業を開始
しているという説明があり、植林後の苗木のケアーも責任を持って続けることを聞き、安心しました。
クレモロの村にセスナ機が到着しました。いつもなら沢山の村人が出迎えてくれるのに、今回は長老のヨバウだけが待っていて、村は昼にもかかわらずシーンと静まりかえり、未だ悲しみが続き、子どもの声すら聞こえません。最初は会う人ごとに、私も泣いていましたが、せっかく研子がTVグループを連れて来たのだから、祭りは出来ないが、取材に協力しようと皆が、日常を取り戻す努力を始めました。子どもたちの笑い声、女性の甲高いおしゃべりも聞こえるようになり、私も安心しましたが、不思議なことに私たちが、この村に来た日が、12人が旅立って49日目でした。偶然ではないようで、その夜、この村で亡くなった8名が私に「研子ありがとう。これで本当に旅立てる」と言い、あの世への使者ガビヨンの背に乗り、空高く飛び立っていきました。
この村に滞在中、インディオ教師5人とじっくり話す時間があり、それぞれの意見を聞きました。「乱伐跡地の植林はとても大切だけど、それだってインディオがいるから出来る事だと思います。インディオの子どもに伝統文化と外部の情報を伝え、ポルトガル語を習得することは、僕たちがこの国で存続していくために、大切な事で、苗木を育てる事と人を育てることは同じ位、重要です。」インディオ保護区内では未だ、貨幣制度は確立していませんが、それとて時間の問題です。10数年前この地を私が初めて訪れた時は皆、服を着ていませんでしたが、今は殆どの人が着ています。文明の波は、近い将来インディオの人を飲み込んでしまうでしょう。一人の教師が語ります。「僕たちはコンピューターも使うようになりたいです。ブラジルのインディオがネットワークを結び、情報交換し、インディオとしての自治権を得たいです。長老たちから、伝説や知恵も聞きたいです。私たちは文字を持っていませんが、アルフャベットに表記し、次世代に残します。インディオは自然を敬い、自然を壊すような生き方をしていません。貴方たち文明人は、自然の声に耳を傾けずに開発し、この星を壊しています」この話を聞きながら、私はここにくる道程で見た広大な大豆畑を思い出しました。豆腐や納豆は身体に良いといって日本人は食しますが、はたしてその大豆はどんな方法で、私たちの口に入るのか、多くの人は考えていないでしょう。アマゾンの森を残す事は、インディオの存続を支援する事にも繋がります。 私たち団体が支援している現場のほんの一部ですが、TVグループは無事収録し、この村を後にしました。セスナ機から見た光景は、ジャングルが焼かれ、赤茶けた大地が日にさらされている箇所が、あちこちにありました。私は終わり無き仕事かもしれませんが、木を植え続け、インディオの次世代に役立つお手伝いを続けていく事を、固く天に誓いました。
サンパウロに戻ると、今度は“カヤポ展”が始まり、オープニングにはラオーニを招き儀式を執り行う予定でしたが、彼は喪に服しているため残念ながら実現できませんでした。それでも初日は1200人もの人が、このイベントに参加し、盛況のうちに始まったことは喜びでした。ただこの時、作成した本を日本語版で発売する予定でいましたが、外国で製作した本に対しての権利問題が浮上し、断念せざるを得ない状況になりました。しかし、あきらめたわけではありません。必ず、日本でこのカヤポの文化を紹介する本は出版しますので、今しばらく待っていて下さい。
今回はまだまだ書き切れない出来事があり、今までで一番辛い旅でもありました。ラオーニに会えなかった事が一番悲しかったし、全ての事がスムーズに進まずいらついた時もありましたが、帰国日に、アユトン・クレナックとの5年ぶりの再会が、私を元気にしてくれました。「研子、焦らず、そのままでいいんだよ。自分を信じて歩いていれば。いつも僕は一緒だから」と励ましてくれました。何か迷った時は、アユトンからプレゼンされた矢を手にとり、心静かに内なる声に耳を傾けていることを話すと、彼は「知っているよ。僕も事あるごとに研子のことは思っていたから」といい、近い将来の夢を淡々と語り、私もいずれ、その事業に参加する事を約束しました。
約3ヶ月の旅でしたが、世界中の出来事を見ても、今こそターニングポイントだなあと、つくづく思います。迷いも沢山ありました。心がいじける事も、萎んでしまう事も。
それでも私はアマゾンの壮大な自然とインディオが好きです。一日でも長くアマゾンの森が残りますよう精一杯、精進していくつもりです。
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